井門グループは、大正13(1924)年に開店した月賦店、大丸商会から始まりました。場所は現在の京浜急行電鉄青物横丁駅のすぐ近く、席亭“新魁座”を借り受けて店を構えました。創業者である井門冨士逸の類い稀な商才と不断の努力によって、京浜間を中心にみるみる発展し、戦前においては、日本最大の月賦店だったと言われています。日本独特の信用販売である月賦は、その起源を江戸時代中期から始まった伊予お椀舟に求めることができます。お椀舟という呼び名は、その代表的な商品がお椀だったことから付いた名前です。お椀舟全盛期、伊予商人は農閑期に伊予桜井の特産であった漆器等を瀬戸内海沿岸を中心にして、中国、九州地方に売り歩きました。販売先を広げていく過程で、掛売りが始まり、5年払い等の年賦に至りました。彼らは売り歩きながら、以前買っていただいたお客様のところから集金しました。
日本が開国し近代化が始まった明治時代、月給制度が始まるとともに年賦を月賦に切り替えた伊予商人の都会進出が始まりました。最初はお椀舟ならぬ移動店舗であったものが、大正時代には次第に常設店舗を持つようになりました。
井門冨士逸が、伊予桜井の隣村、朝倉から東京に出てきたのが大正11(1922)年のことです。新宿に店を構えて隆盛であった丸二商会で月賦商売を習い、独立しました。当時、丸二商会には8歳年少の、後の丸井の創始者青井忠治氏がほぼ時を同じく大正11(1922)年に採用されていますので、冨士逸とは「同じ釜のメシを食った仲」でした。
生活必需品を現金で買う余力のない庶民のための信用販売「月賦」は国民全員に奉仕する大切な仕事です。戦前、井門冨士逸の大丸は隆盛を極めました。しかし逆にそのことが、戦時統制のため一時休業していた商人たちが戦後一斉にスタートを切る時に、一歩出遅れる原因になりました。冨士逸は戦前すでに成功者として財を成していたため、終戦直後に財産税を掛けられて苦労し、甚だ勤労意欲を削がれたようです。戦後の月賦業界でトップをめぐって激しくデッドヒートを演じるのは、青井忠治氏の丸井と岡本虎二郎の緑屋です。岡本虎二郎は戦前、大丸三軒茶屋店の店長で昭和25(1950)年まで大丸の屋号で営業し、のちに大丸の商売再開をうけて社名を緑屋として大変繁盛しました。
井門冨士逸の大丸もこの2社の跡を追って再開しましたが、戦前からの大きな資産を持ちながら、店舗の拡張には消極的でした。そんな中、昭和29(1954)年、デパート業界の関西の雄、大丸が東京店を開店し、井門冨士逸の月賦店の大丸と混同が懸念され、協議の結果デパートは「大丸」、月賦百貨店は「大丸百貨店」と呼び分けることになりました。
大丸百貨店が不動産の取得や店舗の展開に積極的になるのは昭和30年代半ばからで、前社長の井門昭二が中心になって進められました。この頃から大丸百貨店は、テレビ、ラジオなどのコマーシャルで「ライフアップ大丸」という愛称を使用しています。
そして昭和40年代末、月賦販売店に大きな転機が訪れました。「クレジットカード」が一般化して特色が薄れ、商品は多様化して耐久百貨を扱うのに月賦店の床面積ではお客様の要求に応えられなくなったのです。
四大月賦店と呼ばれた丸井、緑屋、大丸百貨店、丸興もその対応に迫られることになりました。丸井は盛んにスクラップ&ビルドを繰り返し、店舗を大型化してサービスも多様化し成功して行きます。緑屋と丸興はクレジットに専念し、より大きな流通グループの中に入ってそれぞれクレディセゾン、ダイエーオーエムシー(現 セディナ)となって成功しています。
私たち大丸百貨店は電器、家具、宝飾の三つの専門店の複合専門店に変身しました。電器部門は昭和20年台から親交あるラオックス(かつての朝日無線電機)と提携して家電大型店を営業、家具の“インテリア井門”宝飾品の“ジュエリー井門”とともに既存店舗で営業し続けるとともに、緩やかに不動産賃貸業に転換して行きました。月賦店経営に必須の配送所、集金拠点、社員寮、店舗予定地も不動産賃貸業の基礎となりました。
株式会社大丸百貨店は平成8(1996)年に株式会社 井門エンタープライズに社名変更され不動産賃貸業とともに月販店時代から連なる宝飾店“ジュエリー井門”を営業しております。
大丸百貨店の不動産所有会社だった株式会社井門不動産は平成10(1998)年に株式会社井門コーポレーションに社名変更され、1997年12月開店の新規事業鉄道模型専門店“モデルス井門”の営業と不動産賃貸業を営んでおります。
月賦店大丸商会としてスタートした私たち井門グループは生まれてから1世紀を経過しました。これからも初心を忘れることなく社会から必要とされる企業集団となるべく努力してまいります。